グランドホテル 静岡県に関する宿情報

  • 伊東グランドホテル

    伊東グランドホテル

    たくさんの湯があふれる源泉掛け流し温泉と、新鮮な海の幸が自慢

    リニューアルした大浴場に加え、新たに3つの貸切露天風呂が仲間入り。やわらかで肌に優しい温泉でさっぱりした後は湯上がり処でくつろいで。お食事は季節ごとに変わる新鮮な魚介類がたっぷり!

    宿種名

    旅館

    住所

    〒414-0012 静岡県伊東市宝町3―3

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  • 沼津グランドホテル

    沼津グランドホテル

    JR沼津駅より徒歩5分!朝食には焼きたてパンを無料でご用意

    ビジネスに、レジャーの拠点に便利!無料で利用できるホームランドリー(洗剤有り)や自家製焼きたてパンの朝食サービスなど、嬉しい内容がいっぱい。大型駐車場も完備。インターネット接続無料の客室あり。

    宿種名

    ホテル

    住所

    〒410-0801 静岡県沼津市大手町3-6-12

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  • 熱川グランドホテル

    熱川グランドホテル

    海まで15秒!海水浴に最適な伊豆のの温泉宿

    伊豆屈指の温泉地「熱川温泉」、源泉掛け流し100%の温泉宿。
    すべてのお部屋から海が臨め、お料理は新鮮な魚介を始めとした磯会席コース。
    海水浴の前後も大浴場や駐車場が利用出来るのがうれしい♪

    宿種名

    ホテル

    住所

    〒413-0302 静岡県賀茂郡東伊豆町奈良本986

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  • 磐田グランドホテル

    磐田グランドホテル

    出張先で天然温泉を満喫!駐車場250台無料!

    広い客室(シングル21平米ツイン31平米他)と源泉掛け流し天然温泉 天神の湯(珍しい黒褐色の濁り湯)でビジネス、旅の疲れをリフレッシュ!安価で一味ちがうホテルステイ。温泉SPA施設の利用は無料です。

    宿種名

    ホテル

    住所

    〒438-0016 静岡県磐田市岩井2280

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  • グランドホテル浜松

    グランドホテル浜松

    ■ニューオータニグループ■25.2平米~55.8平米のお部屋でゆったり!

    浜松最大619名収容。無線LAN対応(無料)。12階まで吹き抜けのアトリュウムロビー。レストラン・バーも8ヶ所あり、寛ぎの一時をお過ごし下さい。

    宿種名

    ホテル

    住所

    〒432-8036 静岡県浜松市中区東伊場1-3-1

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  • 沼津インターグランドホテル

    沼津インターグランドホテル

    温泉・サウナ・マッサージチェアがある宿♪朝食無料サービス!

    沼津インターより3分。ビジネスには勿論、観光の拠点としてゴルフに釣り・マリンスポーツなどにOK!寛ぎの温泉にサウナ、無料のマッサージチェアに本格コーヒーサービス。時之栖グループです。

    宿種名

    ホテル

    住所

    〒410-0012 静岡県沼津市岡一色526-1

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  • 浜名湖グランドホテルさざなみ館

    浜名湖グランドホテルさざなみ館

    湖の眺望と丹念にこしらえたお料理でお客様をお迎いたします。

    ◆本年7月全和室畳を新調◆浜名湖の雄大な眺望と、老舗ならではの会席料理をお楽しみ頂けます。徒歩1分で遊覧船乗場、動物園、植物園があり、遊園地パルパルやロープウェイも徒歩圏です。

    宿種名

    旅館

    住所

    〒431-1209 静岡県浜松市西区舘山寺町260-1

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  • 焼津グランドホテル

    焼津グランドホテル

    海を眺めながらの露天風呂と、新鮮素材の旬の味を優雅に味わう

    窓一面の海景色が美しいロビーラウンジ。人気の天然“焼津黒潮温泉”の露天風呂では海を眺めながらくつろぎのひとときを堪能できる。また館内レストランでは地元焼津ならではの新鮮な海山の幸が頂ける。

    宿種名

    ホテル

    住所

    〒425-0012 焼津市浜当目大崩海岸通り

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  • 御前崎グランドホテル

    御前崎グランドホテル

    太平洋を一望!風光明媚な静岡県最南端のシーリゾート。

    全客室、レストラン、大浴場全てがオーシャンビュー。日本の朝日百選、夕陽百選の御前崎へ。

    宿種名

    ホテル

    住所

    〒421-0601 静岡県御前崎市御前崎1412-1

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  • 静岡グランドホテル中島屋

    静岡グランドホテル中島屋

    JR静岡駅や県庁まで徒歩5分。繁華街の中のアクセス便利なホテル☆

    インターネット無料接続、料金は朝食付(30種のバイキング)
    市街中心部なのに駐車場が1泊500円とお得!
    宿泊者には館内直営レストランのご利用料金を10%OFFの特典付!
    ビジネス、レジャーにお勧め

    宿種名

    ホテル

    住所

    〒420-0852 静岡県静岡市葵区紺屋町3-10

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静岡県

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グランドホテル 静岡県に関する旅行記

横須賀線の歴史的痕跡を探す ~大船-横須賀間編 明治領歌【再...

一般的に「横須賀線」とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちですが、実際は大船-久里浜駅間23.9kmを称します。

帝國海軍は横濱に所在した東海鎮守府が敷地狭隘と当時横濱に雑居していた仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し茲に横須賀鎮守府が改称成立する。

然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路は1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な悪路で馬車通行すら難儀する状態だった為に、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代横須賀鎮守府長官 中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日~大正5年(1916年)3月30日)より輸送手段改善が提議される。

更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日~大正5年(1916年)12月10日)、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)の連署で内閣に請議書を提出し鉄道設置が要請される。



国立公文書館に於ける該保存文書に、


鐵道建設ニ関スル請議書

相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌
海軍大臣 伯爵 西 郷 従 道

内閣総理大臣 伯爵 伊 藤 博 文 殿


の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が緊急性が窺いさせられる。

内閣総理大臣 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)から該鉄道建設調査を命ぜられたのが逓信省鐵道作業局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)である。

井上長官は調査結果を報告書に纏め内閣に回答した。


横須賀鐵道線路布設之義ニ附復命

右線路ノ撰定及費額調査為致候処横濱ヨリ東海道ヲ戸塚驛ニ至リ此里拾壱里延長合テ弐英里 左折シ鎌倉ニ入リ雪ノ下ヨリ長浦ヲ経横須賀ニ達ス此里程拾壱英里 延長合テ弐拾英里也 又他ノ線路無トキニ非ラスト雖モ難易比較シカ難ク結局該線ヲ以テ最良ノ経路トス 此間著シキ工事ハ隧道ニシテ其延長凡ソ拾弐参町 其他海岸埋築及橋梁ヲ架設スル等一切ノ費額壱英里ニ附凡四萬圓 合計八拾八萬ノ見込ニ有之 乍去横濱戸塚間ハ将来幹線ト見做 夫ヨリ横須賀ニ至るルノ間即チ全ク支線タル分多ク隧道ノ工事等有ルヲ以テ里程八本支等分ト雖モ其支線ノ負フヘキ費額ハ五拾萬圓計ニ可達歟 此ノ概算ニ基キ布設ノ可否御決議ニ相成候ハ直ニ実測取掛リ線路設置等ノ手順可相立右復命候也


政府の回答書では、

曩ニ陸海軍両大臣ヨリ其筋ヘ建議ノ趣旨ニ基キ同鐵道ヲ布設センカ為実測スル所ノ結果ハ其一端ヲ東海道鐵道戸塚藤澤間両驛間ニ起シ左折鎌倉ニ出テ長浦港ヲ経テ横須賀ニ達スルノ一線ヲ得リ 此間知性峻嶮ニシテ海濱ニ接シ工事極テ易カラス従テ山ヲ鑿チ海ヲ填ムルノ労賃少カラスト雖モ線路ハ稍直行ニ近ク然レト述カ如ク労賃ノ点ニ至リテ猶深ク講窮セサルへカラサルモノ有 他ノ数線ヲ試測スルニ更ニ迂回ニシテ工事一層困難ナルカ上労賃益加リ之ニ比スルニ本線ノ費額多ラスシテ径捷且水雷局所在ノ長浦港ヲ経ルニノ便利有ルニ依リ到底本線ヲ以テ最良ト見込撰定致候 尚横須賀ヲ貫テ便利ヲ計ラント欲セハ同所全体ノ市街ニ大改革ヲ与ヘサルヲ得スシテ其費用ノ多キ僅ニ家屋移転等ノ類ニ非サレハ曾テ確定スル所ノ四拾五萬圓乃至五拾萬圓ノ支持スル能ハサル所に附 目下此儀ハ計画不致候間 本線路ハ暫ク水平営ノ東南端ニ止メ候テモ船渠ノ用品及軍港ノ需要品ヲ運搬スルニ充分ト存候ニ附他ニ異議無ク弥本線ヲ採用スルニ決定セハ同水兵営ヲ経過セサルヲ不得モ幸ニ鑚鑿ノ地形ヲ変更スルニ要セスシテ二線ヲ布設スルニ不過候附 御承認相成リ候 図面相添ヘ此段及御照会候也

明治弐拾年十一月弐拾四日

逓信省鐵道作業局長官 子爵 井 上 勝

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌 殿
海軍大臣 伯爵 西郷従道 殿


此れらを加味検討した結果、資金不足を根拠に大蔵省の同意が得られず、取敢えず東海道線建設資金内から45万円を流用して建設工事案が設定される。

他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、鵠沼付近での人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置し横須賀方面に分岐させる事に決定し建設工事が開始された。

然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。

殊に、名越隧道は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には掘削工事中に落盤事故も発生し死傷者が生じた。

また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過激な国権回復思潮が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗圓覺寺と言えども路線通過の為には例外的存在では無く寺側は有無を言わさず例外は認められず、泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。
また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは成り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配頂点上に八幡踏切が設置された。

また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。

然して、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)1月に工事がほぼ完工し同年6月18日に正式開通した。

然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ同年3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転され此れが横須賀線運転史の嚆矢になる。

開業当初は大船-横須賀間の4往復45分で平均時速21.6キロ運転だったが、同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増発され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ平均時速27.8キロ6往復35分運転となる(平成22年現在、同区間最速列車運転時間は20分)。

横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。
然るに、明治42年(1909年)1月13日早朝、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、速度が遅かった為に死者こそ出さなかったものの多数の重軽傷者を出す。
事故原因は鎌倉駅信号担当助役が大船-鎌倉間に列車運行中たる事を失念し且つ列車時刻確認を怠り通票閉塞機の故障と独断し不正操作し通票を取出し上り列車機関士に交付した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線三澤付近で同様の事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生したが、三澤事故は必ずしも鎌倉列車正面衝突事故が教訓にならなかった事を証明する。

現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居前付近まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の安全面の観点から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は鎌倉駅を境に立体交差と築堤化される事で決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事起工し僅か4ヶ月で竣工した。

横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。
各区間複線化工事竣工は、

大船-鎌倉間 大正5年(1916年)9月13日

鎌倉-逗子間 大正6年(1917年)3月

逗子-沼間間 大正3年(1914年)8月12日

沼間-田浦間 大正9年(1920年)10月19日

田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日

また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。

また、横須賀線は大正13年(1924年)完成を目処に1500ボルト電化が決定し、明治期に構築の隧道では口径不足で架線吊張が困難な為に、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道口径拡大工事が施行したが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。

関東大震災発生時、横須賀線内で鉄道関連施設の破壊沈下等々、列車では鎌倉駅構内停車中の第32貨物列車や沼間隧道内走行中の第514旅客列車に脱線転覆等の被害を生じ列車に乗車中の皇族 華頂宮博忠王をはじめ乗客職員に少なからぬ死傷者を生じた。

特に、横須賀線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が横須賀駅下車直後に昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒200数名と下車直後の一般旅客100数名合計300名余の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋めになり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され猛烈な悪臭と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が蝟集する惨状を呈した。

横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀間全線で復旧工事が開始され先ず単線で復旧された。
然し、田浦-横須賀間は側面崩落や吉倉隧道坑門破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅れる。
此の辺の描写は作家 内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)に依る短編小説『進水式』の記述に震災前後の横須賀駅前の状況が描かれている。

大船-鎌倉間 9月9日復旧

鎌倉-逗子間 9月10日復旧

逗子-田浦間 9月13日復旧

田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧


関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事は大正13年(1924年)4月に再開され翌年4月に完成する。
かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。

北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の圓覺寺住職 古川慧訓(ふるかわ けいくん)(慶応3年(1866年)4月4日~昭和31年(1956年)8月29日)、及び、建長寺住職 菅原時安(すがわら じあん)(明治5年(1872年)12月8日~昭和36年(1961年)3月6日)、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。

即ち、

        請訓書

当地ハ大船驛ト鎌倉驛トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、圓覺両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也
尚圓覺寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス

文面後半から横須賀線開通の際に於ける圓覺寺側の恨み辛みが読み取れる。


北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と圓覺寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償寄贈して駅が開設された。

昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車区から京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、客車時代のクロスシートに慣れた人々の目線にモハ31型のロングシートは沿線利用者の顰蹙と不評を買うが、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サロハ46型、クハ47型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換運用される。
余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更の上、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。
また、此れと同時に、大森駅停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は通過扱になる。

東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期まで芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。
他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。
特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽対象となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する。
此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、モニ3型木造荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる横須賀線専用新形式車輌が誕生した。

昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。
因みに、此のドックが如何に巨大たるか現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは横須賀第6ドック以外存在しない事からも明白である。
軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基づき大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され横須賀では信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更され、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の悲運の軍艦として記憶される。
此れら対英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降下させられ車内には制服憲兵が警乗した。
同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見可能該当ヶ所にコンクリート塀が設置される。

帝國海軍聯合艦隊司令長官 山本五十六(やまもと いそろく)(明治17年(1884年)4月4日~昭和18年(1943年)4月18日) 海軍大将は、ソロモン諸島方面を前線視察中に米海軍に拠り暗号が解読され予定行動が事前に露見していた事から待伏せに遭い機上に於いて米戦闘機の機銃掃射を受け戦死を遂げる。
山本海軍大将の戦死は正式発表まで伏せられ、御霊は聯合艦隊旗艦 戦艦武蔵 に拠り横須賀軍港に搬送され、横須賀到着を待って同年5月21日15時に政府より正式発表され特旨を以って元帥の称号を賜る。
翌22日に、横須賀駅から東京駅まで山本元帥の御霊を搬送する特別電車が運転される。

横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車4扉サハ78型に改造すべく大井工機部に入場改造中に海軍より将校乗車の為に2等車再連結が要請され4扉化改造工事は即座に中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。

横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車徴用され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出し乗車不可となる。
然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入整備させた他、些か泥縄的ながら3等車サハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。
後に、昭和24年(1949年)7月30日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になるが、但し、日本人が乗車着席している状態で進駐軍の米将兵が立っている時は席を譲り2等車から退車する旨、屈辱的表記が券面裏に記述されていた。

終戦直後から激増した乗客と故障が原因で激減した列車本数とに拠り、横須賀線は列車本数の確保すら困難な状況下に在った。
電車がモーター故障の為に自走不可能になり、已む無く、電車を電気機関車EF53型機に牽引させ最低運転数を確保する。東京の国電では他では中央本線国立-浅川(現 高尾)間で実施し、有余の車輌の整備を実施する。

昭和25年(1950年)に朝鮮半島に於いて朝鮮動乱勃発の頃、三鷹電車区配置の3扉セミクロスシートのモハ51型が関西に転出し、代りに、大阪からモハ42型、及び、モハ43型が田町電車区に転入し横須賀線で使用される。
同時に、モハ32型は身延線富士電車区や飯田線豊橋機関区に転出する。
また、此の年に、現在も伝統を残す車体塗装が横須賀線色に変更される。

久々に横須賀線専用車として昭和26年(1951年)1月に3扉セミクロスシートのクハ76型、モハ70型、及び、2等車サロ46型(改番後 サロ75型)が新製される。

昭和32年(1957年)5月14日17時22分頃、東逗子-逗子間池子弾薬庫前踏切(現 池子踏切)に於いて安全確認を怠り踏切内に進入した米陸軍第18憲兵隊所属トラックが折りしも進行中だった久里浜発東京行7両編成電車と衝突し、先頭車クハ76005型は脱線大破し、米軍兵士2名死亡、乗客乗務員米軍兵士15名が重軽傷する大事故が発生した。
大破したクハ76005型は台枠部も損傷し廃車も危ぶまれたが、大井工場に於いて台枠部以上を全金属車体で新製し車号もクハ76351型として再生した。
該事故は、前述の明治42年(1909年)1月13日早朝に扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で発生した列車正面衝突事故以来の大事故であり、関東大震災災害を除いた横須賀線内で発生した数少ない列車重大事故である。




表紙は第1円覚寺踏切から円覚寺境内を見る

2010/09/03 12:09:12

19-長者ヶ岳ハイキング...

8月29日に、
静岡県田貫湖より、長者ヶ岳~天子ヶ岳~白糸の滝と
ハイキングしました。

その模様を記します。

2010/09/02 09:09:56

2009ウィーン・ザルツブルグの旅(総集編)(写真増補)...

ウィーン ベルヴェデーレ庭園のライオン天使像  2009.10.12

2009ウィーン・ザルツブルグの旅10(写真増補版 72枚 2010.9.1)
    
この旅行記は公開後、日付毎に分割編集しました①~⑦
写真の枚数も全部で280枚に増補しましたのでたっぷりご覧になれます。興味ありましたら元画像に拡大して御覧になることをお勧めします。
細部まで見ることができます。拡大は無料です(笑)
 
2009年10月5~14日
年に一度の今年の海外旅行はクラシック音楽の中でも私がもっとも多くの好きな曲のあるモーツァルトが生まれ活躍したザルツブルグとベートーヴェンゆかりの地ハイリゲンシュタットがあるウィーンを訪れました。
ウィーンは5年前に中欧3国のツアーで一度立ち寄りましたが再度たずねたくなる魅力あふれる街で、今回はオ-ストリア1カ国に絞り、ハプスブルグ王朝の文化遺産と音楽と自然の美しさを堪能した旅でした。

10月5日(月)
出発便 成田発アエロフロート・ロシア航空SU582便 12:00発 エアバスA330-200
モスクワにてSU263便 エアバスA319に乗り換えウィーン着22:00 (時差7時間)
今回は直行便ではなくモスクワ経由としたのは運賃が約半額であるのと帰りにおみやげにマトリョーシカ(木製重ね人形)を買うためである。
インターネットで調べたアエロフロートの評判は芳しくなかったが、実際には機材は真新しい機体で、機内食も他のキャリヤーと変わらなかった。違いは日本人の乗務員がいないことぐらいであった。格安航空券ではなくペックス・スーパーバリュウというお買い得チケットで十分満足できた。

エアバスA330は240人乗りの中型機で座席は2-4-2列。ジャンボジェットよりもこじんまりして落ち着ける感じだった。
モスクワまでの隣席は大卒後専門学校の学生で、来年3月に卒業予定で友人と3人(一人は韓国人)でプラハに行くのだという。
機内食の最初の昼食は特に印象には残らないが、夕方に出た二度目(軽食)のラザニアはとてもおいしかった。
ちょうど10時間でモスクワのシェレメチェボ空港に到着。外は小雨で11℃とのこと。
着陸寸前に上空から見たモスクワの印象は緑が大変多い街であるということだ。

トランジットの保安チェックは、特に手荷物・身体チェックに手間取り、全員靴まで脱いだ。
それが済むと待合スペースで、みやげ物店、免税店、飲食店などかなり多くの店が連なるターミナル2の内部はネットの書き込みとは異なりかなりゆったりして椅子の数も十分だった。
出発まで2時間以上あるのでIrish Barでスモールラガーをたのんだら105ルーブルだった。(後で調べたら1ルーブルは約3円強)
ウィーン行きは14番ゲートで、近くの12番ゲートでは東京行きの搭乗が始まっていた。

2時間半ほどの飛行でウィーン空港に着き22:30発のリムジンバス約20分で中央駅まで行き、そこからタクシーで市庁舎裏のRange gasse(ランゲ通り)のHotel Zisperに到着。
三ツ星ホテルでバスタブ(浴槽)は無いが熱い湯が出たので温熱療法のようで気持ちよかった。水道水はアルプスの雪解け水が源なのでそのまま飲んで差し支えないと書いてあった通りで、カルキ臭もなくおいしかった。無事に到着して一安心。ホッ!

10月6日(火)
3時半に目が覚めてしまったが、二度目は目覚まし時計で6時半に起きた。食堂は地下にあり、ビュッフェ形式でかなり豊富な食べ物が用意されていた。ハム、ソーセージ、チーズ、ヨーグルト、各種ジュース、牛乳、ジャム類、シリアル、フルーツ類などと、保温容器に入った焼きベーコン、卵料理。
一日歩き回るので朝食をしっかり食べることは重要なので助かる。マダムがティーorカフェと聞いてテーブルまで運んでくれる。食後玄関を出て空を見上げると晴れていた。
フロントで最寄りの地下鉄駅Rathaus(市庁舎)を教えてもらった。市庁舎は中央にゴシック建築の尖塔のある巨大で豪華な建物で存在感に圧倒されてしまう。
その横を通ってフォルクス庭園(市民庭園)へ行くと花の時期を過ぎたバラ園の彼方に市庁舎の塔が朝日に輝いていた。公園では遠足に来ていた小学生たちに出会った。

続いてホーフブルグ(王宮)のシシー博物館と皇室の居室、宮廷銀器コレクションなどを見学した。最後にここに住んだ皇帝フランツ・ヨーゼフ皇帝夫妻の居室やエリザベート皇紀の生涯、膨大の数の銀食器や陶磁器、金メッキのダイニングセットなどハプスブルグ家の栄華を偲ぶことが出来る。シニア割引のある入場料には日本語のオーディオガイドも含まれているのでたっぷり見ることが出来たが、ガイドツアーのグループも多く、追い越して進まないといつ終わるかわからないようだった。

見学の後、地下鉄Nestroyplatz駅近くのミキ・トラベルに行って明日の「ウィーンの森半日観光」(E58)(Eはユーロ)と12日の楽友協会ホールでのモーツァルトコンサートのチケット(E54)を購入した。

シュテファン広場Stephanplatzへ戻りグラーベン通りのオープンカフェでシュリンプサラダとビールの昼食。足取りが重くなったがシュテファン寺院裏のモーツァルトハウス・ウィーンに行くことにした。モーツァルトはウィーンに11年間住んだが9回も引っ越したといわれ、ここが唯一現存する家だ。
アパートメントの1~3階を占める10以上の部屋があり、ビリヤード台のあった12畳ぐらいの広い部屋もあって経済的に余裕のある時期を過ごしたのであろう。賭け事も好きで借金に苦労した時期もあったそうだ。ここでもオーディオガイドが役立った。「フィガロの結婚」はこの家で書かれた。

午前中は雲が多かったが午後は快晴となり陽射しが強く、暑くてコートは着ていられない。写真はコントラストが強すぎて具合がよくない。シュテファン寺院の中に入ってベンチで休憩しながら日記を書いている。

ケルントナー通りをそぞろ歩きながら路地奥の郵便局で絵葉書用の切手を買った。郵便局は文具なども販売しているコンビニもかねているよううだ。看板もポストも黄色がシンボルカラーらしい。帰りがけに明日の午後の集合場所ALBERTINA美術館を確認に行くと客待ちの観光馬車フィアカーが何台もとまっていた。

ホテルに戻って一休みし、着替えてから帰りにホテルの近くに見つけたAdam’sというビァレストランへ出かけ、ターフェルシュピッツというウィーンの名物料理をたのんだ。
コンソメスープで茹でた牛肉の薄切りに擦り下ろしたホースラディッシュ(西洋わさび)と付け合せに細切りポテトのソテーが付く。さっぱりした味でビールにもよく合う。
今回は歩数計を携帯することにした。本日の歩数:19010歩

10月7日(水)
夜中の雨音が激しかったので心配したが朝は見事に晴れていた。市庁舎方向に向かって昨日より一本南側の道から国会議事堂の脇に出た。さすがかつてのオーストリア帝国の議事堂だけあり立派で、民主主義発祥のギリシャの建築様式を取り入れているのだそうだ。

リンクRingと呼ばれる環状大通りを少し行くと、内側の王宮庭園には白い大理石の大きなモーツァルト像が建っており、前の芝生には赤いベゴニアで描かれたト音記号が美しい。

外側にはマリアテレジア広場を挟んで自然史博物館と美術史美術館が同じ形の美しい姿を並べている。今回は美術史美術館のみに入った。内部の中央階段や天井画、大理石の床の模様なども豪華なものだ。たくさんの絵画の中ではブリューゲルの「雪中の狩人」「農民の婚礼」「バベルの塔」、ヴェラスケスのスペイン王女マルガリータ・テレサの肖像連作などがよく知られている。2階ホールのゴージャスなカフェ・ゲルストナーCafé Gerstnerにてコーヒーで一休みし、隣席の人と写真を撮りあった。

午後のウィーンの森半日観光の出発はアルベルティーナ美術館前からで、女性ガイドの館野さんと参加者7名が9人乗りのワンボックスカーで出かけた。ウィーンの森南コースは市内から小1時間で着き、最初に寄ったのはリヒテンシュタイン城で外観の見学のみ。

次は石材採掘跡の地底湖SEEGROTTEで、地下20米ぐらいで6千平米もあり透明度の高い神秘的な湖だ。暗闇の湖をボートで一周した。気温は9℃一定で湿度は97%もあるそうだ。ここにはナチスの戦闘機部品工場跡が残されている。

カフェタイムの後、シューベルトが「冬の旅」の「菩提樹」の曲を書いた宿の跡のホテルに寄り2代目の菩提樹と泉(手漕ぎの井戸)を見学した。最後は女子修道院マイヤーリングを見学して6時少し前に市内へ戻った。

ウィーンの森の想像したイメージはもっと木々が生い茂った深い森であったが、実際は箱根や軽井沢に近い印象だった。
夕食には早すぎたので王宮沿いにぶらぶら歩きヘラクレス像が4体も構えるミヒャエル門にさしかかった。ここも名所らしく観光のグループがいくつも見られた。

そこからグラーベン大通りの途中にブランドショップが並んだコールマルクト通りがあり、ショーウィンドウの写真が一番きれいに撮れるたそがれ時を迎えていた。

夕食はオペラ座近くの天満屋にしようと思っていたが少し遠いので近くにあったシーフード店NORDSEEに入って白身魚のグリルにマッシュルームソース、ポテト、白ワイン1/4ℓ。
E16.25の内ソービニオンブランのワインがE7で魚より高かったがベストチョイスだった。

食後はグラーベン通りやアンティーク通りなどをそぞろ歩き、ショーウィンドウやにぎやかなレストランのテラス席を写したりしながらシュテファン広場に行ってみると、大勢の人だかりの中で若者たちが片手倒立などのマッスル大道芸に興じていた。
本日の歩数:19146歩

10月8日(木)
午前中にザルツブルグに着きたいので6時前に起きた。朝食に行ったらまだ一組しかいなかった。7時にチェックアウトして地下鉄駅Rathausに向かう途中、正面から昇ったばかりの朝日がまぶしかった。途中Volkstheaterで乗り換え7時半にはウィーン西駅に着いた。
切符売り場を探しザルツブルグ行き2等片道を買った。(E47.5  317Km)

列車は6番ホーム8:20発ザルツブルグ経由ミュンヘン行きで暗赤色の機関車が牽引する。ECONOMY KLASSと書かれた2等車両はFIRSTより少なく混んでいた。隣席は日本人でフルートを持った女の子を連れた知り合いらしい男性で、レッスンの合間に今日はザルツブルグへの日帰り観光とのこと。

ハイスピード列車という車内放送があったがモニター表示では200Kmまでだった。
ザルツブルグへ近づくにつれて山と牧草地が混在するアルプスのような風景が多くなってきた。11時少し過ぎに到着した。西口駅前はバスの発着所や低層のオフィスビルが多い商業地域で観光地の雰囲気はまったくない。
ネットで予約したホテルLasserhofは駅の南側の線路をくぐった東口側にあり、歩いて行ける距離で外観からすぐにわかった。昼前でチェックインは出来ないので荷物を預け、市内観光地図を貰って新市街の中心にあるミラベル広場向かった。
そこのパノラマツアーの案内所で湖水地方のザルツカンマーグートSALZKAMMERGUTをめぐるツアーを申し込んだ。(E50)今日はまずまずの天気だが明日から悪くなるとの予報なので予定を早めて今日の午後行くことにした。

ミラベル広場では大規模なマーケットが開かれており、野菜、果物、パン屋、肉類、チーズ、お花、リース飾り、雑貨などを商う店やその場で食べられる料理を出す店などで中心にある教会の周りが埋め尽くされていた。
そこでグヤーシュというハンガリー料理が元でパプリカ味の肉、野菜たっぷりのスープを昼食にした。
マーケットは秋の味覚にあふれており、めずらしいキノコ類やカボチャ、動物の人形など見飽きることがない。客と売り手のやり取りも活気があって写真の好材料だ。

2時出発のツアーは「サウンドオブミュージックツアー」といい、物語に登場する土地や教会などを訪ねるもので参加者10人が大型バスで出かけた。ガイドはこちらに13年住んでいる高森さんという男性で、「ザルツブログ」を書いているとのこと。

フシュル城、サンクト・ギルヘン、湖上遊覧、サンクト・ヴォルフガング、モントゼーなどをめぐる4時間のツアーでは映画の場面と関連付けて説明してくれたが、私は見ていないのでなんとも。でも湖上から眺める景色はすばらしく、緑の牧草地、花に飾られた家々、教会、ホテルなど、絵のような、という表現がふさわしい。
サンクト・ギルゲンのモーツァルトハウスの前ではモーツァルト像の前にたむろする少年たちに撮ってくれよとせがまれた。モーツァルトの母と姉が住んでいた家が今は役場Rathausになっている。

6時近くにミラベル広場へ戻った。今日の明るい曇り空は写真撮影には最適だった。
ザルツブルグSALZBURGはその名の通り塩で栄えた都市なので、みやげに岩塩を買った。

夕食はホテル近くのビァレストランPitter Kellerへ入った。オーストリアではドイツの影響が大きいためかワインよりビールが多く飲まれるらしくビァレストランはよく見かける。小グラスビールに1/2フライドチキンとポテトサラダでE13.80 レモンが半個ついておりさっぱりとした味で、酸味が少々強いポテトサラダとともにこれがオーストリアの味か、と思いながら食べた。本日の歩数:18696歩

10月9日(金)
3日間かなり歩いたので今朝はゆっくりすることにした。でも昨夜は9時過ぎには寝てしまったので7時にセットした目覚ましは必要なかった。
7時半に食堂へ行っても早いせいかまだ客は少なかった。ビュッフェスタイルの朝食はウィーンと同じほどの品々が揃っており十分満足できた。特に果実の絵が描かれた容器に入った6種類のジャムは気に入った。

初めて絵葉書を書いた。切手はウィーンで買っておいたので出かけるときにポストを探しミラベル公園近くで投函した。ホテルの出がけにフロントで乗り物や名所の入場が出来るザルツブルグカード48hr E32を買った。大変便利でお得なカードだった。

ミラベル公園の庭では赤いベゴニアで描かれたあざやかな模様が印象的で、遠くにお城を望む構図はガイドブックの「るるぶ ウィーン・・」の表紙そのものだ。

公園を出てすぐ近くのマルカスト広場に面したモーツァルトハウスを見学した。ここは二度目に住んだ家で、オーディオガイドで曲の演奏も聴けてすごくよかった。聴いたことのない多くの作品が紹介されて、あらためてモーツァルト好きが高じてしまった。

次にバスも通る大きな橋(ザルツァッハ川に架かるシュターツ橋)を渡り旧市街へ向かった。市街へ入ったとたん、狭い道の両側にびっしり立ち並んだ家並みは5,6階建てぐらいで、想像していたのとは大きく異なり見渡しが効かない迷路のようだった。

モーツァルト広場を横切り、歴代大司教の宮殿であるレジデンツを外から、大聖堂のドームには中へは入って見学した。数々の絵がちり嵌められた天蓋は実に見ごたえがあり、立派なパイプオルガンは見るだけではもったいない。このオルガンはヨーロッパでも最大規模でモーツァルトも1779年から奏者を務めたそうだ。

レジデンツ広場から南に見える小高い山の上にあるホーエンザルツブルグ城へ行くことにした。まずケーブルカーで登り、城塞の外周に着くと、そこからザルツブルグ市全体が見渡せる絶景に出会うことが出来る。
城のミュージアムでは築城の様子や武器の類、城での生活の様子、楽器などいろいろあって書ききれないが、いずれも面白かった。城の中庭で会った花嫁さんやお茶目な男の子など写真を撮らせてもらった。

見学途中で昼食代わりに持ち合わせのスナック菓子しか食べていなかったので、城を下りてガイドブックで探した有名なカフェ・トマッセリCafé Tomaselliへ入った。コーヒーをと言っていろいろ種類があって迷っているとウェイターが行ってしまい、再度来たときにブラックティー(紅茶)を注文するとChanged your mind?と怪訝な顔をするから、そーだよ、コーヒーは選ぶのが難しいからと笑いながら言ってやった。
有名なケーキはウェイトレスがトレイに載せてきたのを選び会計も別々だった。いくつもの層の間にフルーツが入った食べ応えがありおいしいケーキだった。

一息入れたので旧市街の中心部にあるモーツァルトの生家Mozarts Geburtshausへ行ってみた。外観の黄色い壁はよく手入れされた感じで、内部には幼いころのヴァイオリンや鍵盤楽器、楽譜、肖像画、書簡などが多数展示されている。

街一番の繁華街のゲトライデ小路Getreidegasseには店のシンボルを表現した鉄細工の看板がたくさんあり、絵になる風景だ。写真の題材として格好の被写体である。

5時を過ぎてこの後どうしようかと考えながらぶらついていると、同じ場所を堂々巡りしてしまい我ながらいやになってしまった。昨日のガイドが推奨していたザッハーホテルHotel Sacher Salzburgのレストランに行くことにした。
Salzach Grillでウィンナーシュニツェルと赤ワイン。薄い牛肉のパン粉をつけたカツではなく天ぷらのような衣をつけて揚げたもので、色はキツネ色ですごくおいしかった。支払いのとき請求書が挟まれた折片紙に店名、メニュー、日付などを書いてサインしてもらった。

ホテルにはピアノバーがあると書いてあったので行ってみた。そこでゆっくりとピアノを聴きながらバランタインのロック。宿泊のホテルは一泊E59の三ツ星だがザッハーホテルでの食事やバーの雰囲気はなんと贅沢な気分になれるのだろう。(食事とバー合わせてE55)

隣の席の子連れの夫婦が「どこの国から来たの?」と声をかけてくれたので話が始まり、彼らは奥さんがドイツ人で旦那はユーゴスラビア人。12,3歳のはにかみ娘だった。
トイレから戻ってくるとピアノ演奏がまた始まっており2杯目のスコッチを注文した。

今夜はまさに至福のとき。音楽好きの連れがいればとの願望は贅沢すぎるというもの。
歩いて帰るころにはしっとりと小雨が降り始めていた。楽しい一日を無事にホテルに戻れて感謝〃〃 。これだから一人旅はやめられない。 本日の歩数:13905歩

10月10日(土)
夜間に少しではあるが降っていたので天気が気になったが朝にはやんでいた。旧市街の主要なところは昨日見て回ったのであまり急ぐ必要もなく、ゆっくり朝食をとった。

今日はバスに乗ってみることにして、フロントで地図にあるバス停の○印とバスの進行方向を確かめた。ザルツブルグ議会の前で乗り、橋を渡ってモーツァルト広場で降りた。

まだ10時前なので観光客は少なく、とりあえず広場に面したインフォメーションiで明日の列車の時刻表をもらい、すぐ前のザルツブルグミュージアムを見学した。古代遺跡の発掘品や音楽関係の展示、地下の絵画などを見たがあまり印象は強くなかった。
その後セントピーター寺院の教会コンサートのチケットを買いに行ったが、寺院では売っておらず結局i内のチケットサービスで手に入れた。(E18)

モーツァルト広場では高校生のバンドの演奏が始まり大勢の見物客が取り囲んで聴き入った。広場近くのMOZARTというカフェでツナ入りのスパゲティーを食べたが塩味がかなりきつかった。このころから薄日がさしてきた。コップの水がご馳走だった。

旧市街を東に向かい祝祭劇場東端のカラヤン広場前から22番バスで郊外まで行ってみた。住宅街からすぐに田園地帯に出てしまい町が大きくないのがわかった。25分ぐらい西に走ると遠くに城塞がよく見えた。終点でしばらく停車したあと元の停留所Karajan-Platzまで戻り、マカルト小橋たもとにある遊覧船の発着所に行き16時発のチケットを買った。

乗船まで1時間以上あるのでいったんホテルへ戻る途中、橋の上でカモメにパンを投げ与えキャッチするところを写して遊んだ。実に上手に捕るものだと感心した。

ミラベル公園横のフュルストFurstでおみやげのモーツァルト・クーゲル(球形のチョコレート菓子)を買った。ザルツブルグでしか買えないと8日のガイドに言われていた。

16時に曇り空の下で出発した遊覧船は満席だった。350馬力のエンジン搭載とアナウンスしていたが、スクリューではなくジェット噴流で推進力を得る形式のためと後方デッキにいたのでやけに音がうるさかった。船上からも城塞がよく見え、やはりザルツブルグのシンボルなのだと感じた。

7時からのセントピーター寺院でのモーツァルトコンサートは半地下にあるロマネスクホールというそれ程大きくないホールなので身近で聴けて大変よかった。50人ほどの聴衆は私を含め殆どが年配の人で「年金コンサート」のようだった。ピアニストはナターシャ・ルバネンコというロシア人で曲目はソナタKV570とKV331の2曲。後の曲は最終楽章が「トルコ行進曲」として有名な曲だ。   本日の歩数:16638歩

10月11日(日)
明け方音を立てて雨が降っていたので今日は一日だめかという気がして少々気が重い。
でも8:08の列車でウィーンに戻るのでしっかりと朝食を食べて支度をした。

7時半にチェックアウトして外に出てみると小雨。傘を広げてキャスターケースを押しながら駅に向かった。切符売り場は臨時のプレファブの建物内でそこには大きなロッカールームがあった。出発は「8:08ウィーン西駅 4番線」の表示で確認した。

車内はガラガラでテーブルのある4人席を最初一人で使った。車内で大いびきをかいて寝ている人がいて、周りの人と顔を見合わせてクスクス笑ってしまった。
座席のあちこちに赤いパンフレットが置いてあるので中を見ると、この列車の終点までの停車駅と時刻、駅ごとの接続列車の時刻などが詳細に記載された時刻表で、終点のウィーン西駅からの空港バスの時刻まで載っている。なんと親切で実用的なのかと感心した。

9時半にリンツ(オーストリアで人口が第二の都市)に着くと一人でいた席に3人家族が着いた。ウィーン大学の学生であるという娘と父親の写真を撮らせてと頼んだら、娘は「オーストリアのファミリーとして撮って」と言うのに父親は照れて目を閉じてしまった。

撮れたのはほのぼのとしたファミリー写真だ。置き場に困った父親の右手が・・・。
列車は定刻に着き、ウィーン西駅からホテルのあるPilgramgasseまでは地下鉄で4駅と近い。駅の目の前が今日の4つ星ホテルANANAS。昼前であったがすぐにチェックインできた。豪華さはないが部屋の広さもゆったりとして十分。なによりバスタブがあるのが気に入った。一週間湯舟につかっていないのでゆったり入って疲れを取りたいと思っていた。

ウィーンに着いたときには雨はすっかり上がり薄日が差していたので、一休みしてから本日の目的地のベートーヴェンゆかりの地ハイリゲンシュタットへ向けて出発した。市の中心から5Kmほど北にありベートーヴェンハウスと小川に沿ったベートーヴェンの散歩道がある。
ガイドブックの地図を見ながらベートーヴェンハウスを探した。地元の婦人にたずねると親切に教えてくれた。十字路にある教会が目印で、ベートーヴェンの夏の家(外観のみ)と難聴に苦しみ兄弟宛の遺書を書いた「ハイリゲンシュタットの遺書の家」を見学した。こじんまりした家でザルツブルグやウィーンのモーツァルトハウスと比べると質素な感じだった。でもデスマスクや遺髪などを見ると真に迫るものがある。

そのあと落ち葉を踏みしめながら英雄通りEroicagasseを通って「田園」の曲を構想したといわれるベートーヴェンの散歩道Beethovengangを歩いた。水の流れは幅50cmぐらいでほんとうに小川だ。周辺は秋の落葉で彩られて、のどかだがちょっとうら寂しさが漂っている。新緑のころはまた異なっているのだろう。交響曲第6番「田園」は多分春から初夏にかけて書かれたものだろうかと考えた。小鳥のさえずりや雷など生き生きした感じがするので。

西のほうへ更に行くと上り坂となり、小高くなった丘陵地帯にブドウ畑が広がっていた。
住宅街に戻るとさまざまな色合いの美しい家が並んでおり、ウィーンの住宅建築の展示場を見ているようで、しかも自然とよく調和している。

ヤリスYaris(トヨタヴィッツの欧州生産車)の手入れをしている女性がいたので、ヤリスですねと声をかけると、「この車5年前に買ったけれどすごく気に入っているのよ」と笑顔で答えていた。ワイパーに積もった黄葉が季節感をかもし出していてよかった。

だいぶ歩いて疲れたので、車が通れない小道を通って市電の終点グリンツィングGrinzingまで歩き、駅前のカフェPUCCO’Sに入って紅茶とケーキで一休みした。
帰りは市電38番に乗ってKarlsplatzまで戻り夕暮れ時のオペラ座や周辺の景色を写した。

夕食は初めて日本食をと思って天満屋へ行った。てんぷらメニュー(刺身、ひじきの煮つけ、たっぷりのてんぷら、ご飯に味噌汁)とキリン生ビール、グラス白ワイン(E40)
8時ごろホテルに戻り、フロントで変圧器を借りた。携帯に充電しないとメール写真が写せなくて困っていたところだった。四ツ星ホテルのありがたさだ。本日の歩数:18136歩

10月12日(月)
ウィーン最後の日は雨で始まった。テレビの気象予報では曇りで気温は12℃。小雨の中をベルヴェデーレ宮殿美術館のクリムトの絵を目当てに出かけた。最寄の駅から10分もあるが仕方がない。
途中で同じ宮殿に向かうオーストラリアから来た老夫婦と一緒になった。It’s a long wayと同じように感じていたようだ。宮殿は左右対称の立派なもので、緑青色の屋根が美しい。展示は3フロアあり、目当てのクリムトは2階で、有名な「接吻」以外にも風景画なども含め多くの作品があった。
「接吻」は1908年作で国立美術館に即買い上げられたそうだ。日本語のオーディオガイド付きなので他のオーストリアにかかわりの深い画家や宗教画などもある程度理解できた。

北側には広々とした庭園があり、ベージュと茶の二色の砕石と芝生や植木で描かれた美しい模様がどっしりとした石造りの宮殿を優美に見せている。芝生を嘴でほじくり返すカラスは小柄だが悪質に見えた。庭園北側にあるバロック美術館は素通りしてベージュと茶の2色の壁が美しい楽友協会の横を通って繁華街へ出た。途中グランドホテルの中をのぞいたら地下に野菜、果物、肉、パンなど豊富に並べたデパ地下ならぬホテ地下が見えた。

昼食は天満屋となりのMAMA’S KITCHENというウィーン料理の店に入った。見て、中身を聞いてたのんだのは、パンと卵などを混ぜた大きなパン団子(クヌ-デル)をスープで茹でたものを、肉と野菜の煮込みと一緒に食べるもの。
一緒に食べると塩味がちょうどよい。煮込みは酸味が効いてシチューとは違った味だ。食後はケルントナー通りをぶらつきながらおみやげのモーツァルト・チョコレートや民芸品などを買った。

夜のコンサートに備えてひとまずホテルへ戻り、ほかに客のいない一階のカフェで紅茶を飲みながら日記を書いている。ガラス天井からのやわらかい光が気分をほぐしてくれる。

楽友協会はKarlsplatz駅からすぐで7時半にはついた。ロビー横のクロークにコートを預け、バウチャーと引き換えにチケットを受け取った。ミキトラベルへ行って購入したのはE54の席だが、受け取ったのはE79の前から6列目のよい席だった。
本日のプログラムをE5で購入。7:40にブザーが鳴って入場開始。この楽友協会大ホールは毎年ニューイヤーコンサートが行われ超有名なだけあって、開始前の記念撮影で舞台の前は混雑した。

ウィーンモーツァルトオーケストラによる演奏のプログラムは前半が交響曲35番、94番、ドンジョバンニ、フルートとハープのための協奏曲など、後半はフィガロの結婚、アイネクライネ・・・など。いろいろな種類の音楽が聴けてすごくよかった。オペラなどふだん聴く機会は無いので。アンコールも大サービスで、フィナーレは新年と同じラデツキー行進曲で聴衆も手拍子で歓喜に酔いしれた。

ホテルに戻ってから1階のバーでワインを飲んだ。旅行の最後の夜のすばらしいコンサートの後なので、ほっとした安堵感と疲れが入り混じり、いい気分でこの旅行を思い返した。
本日の歩数:約16000歩(13日空港で20826歩)

10月13日(火)
昨日の天気とはうって変わり朝から快晴だった。テレビの気象番組によると朝6時の気温は6℃で日中の最高気温が8℃とのこと。8時にはすべての帰り支度が整い空港に向かうには1時間早すぎるのでホテルの近辺に出かけてみた。
外は風がすごく強く、すぐにコートの襟を立てた。日が昇って間もないので、通りの一部や高い建物の上部だけがまぶしいほどの陽を浴びて輝いている。すぐ近くの教会の白い塔が真っ青な空にそびえていた。

このあたりでは通勤や通学、買い物などごく普通の生活が見られ、繁華街とはまったく異なる雰囲気が興味深い。交差点の近くにCAFE KONDITOREIというカフェがあったので朝食に入った。
(ANANASの朝食はオプション)メニュー看板でEgg Breakfastを注文すると、オレンジジュースのあとしばらくして出来立てのゆで卵、あたたかいパン、クリームでハートの模様を描いたウィンナコーヒーが運ばれてきた。
年配のマエストロはカフェ店主らしく気の利いたサービスをしてくれた。ホテルのビュッフェ朝食ではこういうことはない。ホテルの裏側へ回ると地下鉄駅PILGRAM GASSEの昔ながらの年代を感じさせる立派な出入り口があり、朝の通勤客が急いでいた。
9時過ぎにチェックアウトを済ませ、中央駅からは9:40発の空港ライナー16分で着いた。

帰国便 ウィーン発アエロフロート・ロシア航空SU262便 12:00発 エアバスA319  モスクワにてSU575便 エアバスA330に乗り換えモスクワ19:20発 成田着10:00
モスクワではお目当てのマトリョーシカ(木製重ね人形)を7体重ねと5体重ねの2個買った。
モスクワを出発するとき時差を1時間間違えて危うい思いをした。乗り継ぎ便での一人旅ではくれぐれも注意が必要だと思った。成田到着は予定より少し早く9:23に無事着陸した。

◇ 今回の旅行記はこれで終わります。ウィーンとザルツブルグの二都市での連泊のため移動の疲れは少ない代わり歩いた距離は約80Km(13万歩)に達しました。

◇ 天候はおおむね良好で傘をさして観光することはありませんでした。気温は6日午後の28℃から13日朝の6℃まで変化は大きかったですが湿度は低いので不快なことはありませんでした。晴れたのは3日間だけで、あとは曇りや薄日が差す天気で、写真撮影にはコントラストが強すぎずかえってよかったと思いました。

◇ この旅行記は撮影した写真の解説書も意図していますので駅や通りや店の名称など原語も併記したところがあります。
◇写真機材  カメラCANON EOS40D EF-S 17-85 IS USM
       Nikon COOL-PIX 5400(楽友協会ホールの写真) 
◇費用精算  航空券(諸税、手数料含む)    \75410
       ホテル(3箇所 8泊)      \76380
       交通費(ザルツブルグ往復含む)   \25270
       オプショナル半日ツアー、コンサート各2回   \24120
       入場料、食事、カフェ、バー    \43310
       おみやげ             \27250 
       モスクワでのおみやげ、飲食    \20290
       合計               292030円 
    為替レート  1E=134円  1ルーブル=3.1円

写真は元画像に拡大して御覧ください。  次の画像へ>>
日付毎に編集した①~⑦の写真総数は280枚あります。

編集・公開 2010.5  yamada423
写真増補改訂 2010.9.1(72枚)

2010/09/01 12:09:03

2010年8月 青春18きっぷの旅、静岡編。...

18切符があと1枚余っていたので
今まで未開拓だった静岡県の浜松市へ行ってきました。

Japan Rail Passを持って日本を旅行する外国人友達で
浜松へ行ったことがある人全員が
「そんなに大きくない町だけど、博物館がたくさんあって面白い」
と言ってるのを聞いていたので、
これを機に行く事にしました。

先ず電車の時刻確認。
これはいつも、最終到着地から逆算で調べます。
浜松には夕方に着く予定にしていたので、
着時間で見てみると

大阪 1330 新快速

米原 1451 
   1456 普通大垣行き

大垣 1540
   1541 新快速浜松行き

浜松 1744

これがいい感じの接続でした。

1日目
電車で移動。

浜松駅周辺散策し、夜はうなぎ。

2日目
先ず、浜松まつり会館へ行き、その後は中田島砂丘へ。
その後、自衛隊の浜松基地内にあるエアパークへ。
浜松駅周辺に戻り、浜松城の見学。

新幹線のこだま号で、余裕に座って新大阪へ戻る。

2010/08/30 09:08:02

インド コルカタ オべロイグランドホテル The Obero...

インドコルカタの中心地にある最高級ホテルです。

街の中心部にあるために何をするにもとても便利な場所です。

コルカタのホテルとは思えない金額ですがインドでは珍しく非常にホスピタリティー溢れた良いホテルです。

従業員の対応は良く愛嬌があります。

只、お部屋はかなり年季が入っていて使いにくい部分やカビ臭い部分また汚れが目立つところが多いです。

インターネットはそこそこの速度で問題ありませんでした。

ホテルの評価としては全体的に平均点以上はキープしています。

コルカタの中心地オフィス街へも徒歩でアクセス可能です。

部屋だけでいえばコルカタ郊外のハイアットリージェンシーをお薦めしますが渋滞もあり快適な車の手配(コルカタのタクシーはエアコンも無くボロイ)が無いのであれば市内での滞在はこちらのホテルを強くお薦めします。

ハイアットは部屋・従業員とも素晴らしいですが街中から遠すぎます。

尚、空港からのタクシー移動が厳しい人にはリムジンサービスをお薦めします。

リムジン単体ではかなりの料金を請求されますので初めから空港往復分のリムジン料金が入っているスイートパッケージを選択するのがベストだと思います。

このホテルの周りにはおいしいインド料理屋さんや中華料理屋さんがあるので食事には困りません。

尚、ホテルのタイ料理はタイ人の女シェフが料理していますが味は今一つです。

2010/08/30 12:08:56

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